徳川御三家の
紀州藩第2代藩主・
徳川光貞の四男として生まれる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・
徳川家継の死により秀忠の流れの
徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・
天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の
正徳の治を改める
幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、
新田開発など公共政策、
公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための
目安箱の設置などの
享保の改革を実行した。
徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから
米将軍(
八木将軍)と呼ばれていた。