五・一五事件 wikipedia|無料辞書
◆犯行背景
当時は
1929年(昭和4年)の
世界恐慌に端を発した
大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。
1931年(昭和6年)には
石原莞爾率いる
関東軍の一部が
満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の
総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。
しかし、
1930年(昭和5年)
ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理
若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、
立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。
犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点であったと思われる。不況以前、
大正デモクラシーに代表される
民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級や
マルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。
犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ
孫文とは親友であった。ゆえに犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論をかねてよりもっていた。これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。
本事件は、
二・二六事件と並んで軍人による
クーデター・
テロ事件として扱われるが、犯人のうち軍人は
軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用した
クーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。
また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸・
立憲政友会(政友会)本部・
警視庁とともに、
牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第二の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。
松本清張は計画の指導者の一人だった
大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に
森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『
昭和史発掘』)。だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。
本事件は
昭和天皇の
勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後
斎藤実、
岡田啓介という軍人内閣が成立し、
加藤高明内閣以来続いた
政党内閣の慣例(
憲政の常道)を破る端緒となった。もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお
代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が
満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。
◆「話せば分かる」
時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であるが、これは犬養毅の最期の言葉というわけではない。
元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であった。しかし実行時には、表から突入した三上隊が最初に犬養を発見したものの、犬養自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃した。それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。
「話せば分かる」「問答無用」という言葉については、元海軍中尉山岸宏の次の回想がある。
また、元海軍中尉三上卓は裁判証言で次のように語っている。
一方、
儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養・討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。