彼の家系は地方官を輩出するくらいの低い家柄であったが、
安禄山の乱以後の政治改革により低い家系でも取り立てられやすくなったおかげもあり、
800年、29歳で
科挙の
進士科に合格した。35歳で県(ちゅうちつけん、
陝西省)の
尉になり、その後は
翰林学士、
左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(
北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の
844年に、
平安時代の留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。
平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。
菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、
紫式部が
上東門院彰子に教授した(『
紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、『
枕草子』に『白氏文集』が登場し、『
源氏物語』が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の
貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。