起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った
放免である。江戸時代、法的にはたびたび禁じられたが、武士は市中の犯罪者について不分明なため、捜査の必要上、比較的軽い犯罪者が情報収集のために使われた。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ犯罪捜査自体が困難だったのである。
親分と呼ばれる町、村内の顔役に委任されることも多い。配下に手下を持つことも多く、これを
下っ引と称した。必然的に
博徒、
テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した。
時代劇においては
十手を常に所持していたかのように描かれているが、実際のところ公式には
十手が持てず、必要な時のみ貸与されていた。
同心、
火付盗賊改方の配下とはなるが、町奉行所から俸給も任命もなかった。上記に記されたように、岡っ引は町奉行所の正規の構成員ではなかった。故に、岡っ引が現在の巡査階級の警察官に相当するように表現されていることがあるが、それは妥当ではない。現在の巡査階級の警察官に当たるのは
三廻などの同心と考えるのが妥当である。ただし同心は管轄の町屋からの
付け届けなどでかなりの実収入があり、そこから手札(小遣い)を得ていた。同心の屋敷には、使っている岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。江戸町奉行所全体で岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。
江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州
守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、
関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた。